エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY


アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの世界を下敷きに舞台を現代のアメリカNYに置き換えたドラマです。

またホームズの相棒ワトソンが初の女性へと変更される等、ニーズに合わせた変更がされています(賛否が分かれる所かもしれません)。


シャーロック・ホームズというと長らく英国紳士的な描き方がされてきましたが、実は原作ではかなりの変人で破天荒な人物で描写されているのです。

最近では映画「シャーロック・ホームズ」で原作に近い変人設定がされる等、その扱われ方が変わってきている様です。


このエレメンタリーでもかなりの変人設定にされていて、それがドラマに程よいスパイスを与えてくれます。

一応ジャンルとしてはミステリードラマに当たりますが、そこまで唸る様なトリック等は無く、どちらかというとドラッグに溺れどん底まで落ちた天才ホームズの人間的な成長や快気とそれを支えるワトソンとの友情とも言えない運命的な関係等のヒューマンドラマの向きが強い作品です。


またワトソンが女性に変更されたことにより、変人奇人、ドラッグ漬けからの再生を図るホームズを包み込む母性溢れる人柄が際立ちます。


ちょっと疲れている時にも小気味良く安心して見られるオススメドラマです。

ループ説から考察する進撃の巨人[~101話](ゆめの)

最後の巨人である戦鎚の巨人が登場し、進撃の巨人の物語もいよいよ終局に近づいて来た感がありますが、ここまでの話(原作101話)と有力視されているループ説を用いて100年前の巨人大戦とその後を考察してみようと思います。

一応、補足するとループ説とは進撃の世界がループしているのではないかという説です。



このループ説を前提とすると色々見えてくるものがあります。


100年前の巨人大戦の真実とは



99話にてタイバー家が「醜い争いを憂い、さらにマーレ人を哀れに思った145代フリッツ王がタイバー家と組んで国を売った」と言っていますが、私はこれは真実ではないと考えています。
このことを考察するに当たり、私が注目したいのはダイナ・フリッツの「それまでも八つの巨人を分けた家同士が争っていた」という発言です。

この争う理由とは「ループの是非」だったのではないでしょうか、つまりループ肯定派否定派で争っていたのではないかと思うのです。
巨人の記憶継承は血縁が近い程深くなるとされていますが、家系で記憶継承してきた巨人の家では過去のループのことを知っていたとしても不思議ではありません。

そうなって来ると巨人大戦の意味も見えてきます。
そして、それまで始祖の巨人を用いて均衡を保ってきたのに、何故この大戦では始祖が用いられなかったのか。

始祖の巨人との間にある契り


私が思うに、それは、この時すでに始祖の巨人は不戦の契りが発動していたからではないだろうかと思うのです。
ループにはいくつか条件があり、その一つに「発動前の約100年間、力を充電するために始祖の力である叫びの力が制限される」という様なものがあり、それこそが不戦の契りだったのではないでしょうか。
つまり不戦の契りとはループの契りの一端だったのだと思います。


始祖不在によって巨人大戦開幕


今まで言われていた巨人大戦開戦→終戦→不戦の契りの順ではなく不戦の契り→巨人大戦だったのではないでしょうか、その方が自然な流れの様に思います。
145代目の王が始祖の巨人を引き継ぎ、不戦の契りが発動することが開戦のゴングであったと、、、、そうすると上記の「そもそも巨人大戦とは145代の王が始祖の巨人を継承したことが始まりですが」というダイナ・フリッツの発言と符合します。

そして大戦によりループ肯定派が勝利するも勝者側も敗者側も家系による巨人継承が途絶え、ループの記憶も消えた。タイバー家(肯定派)とクルーガー家(否定派)を除いて





これは当初、「道」を通じて未来を見たのかと思いましたが、これはループの前世というか、別の世界線の記憶のことだったと今は思っています。
タイバー家だけでなく、この記憶があり始祖簒奪を企てたということから、クルーガーも巨人継承の家系だったと推察されます。
何故自分の家系の人間ではなくグリシャに始祖簒奪を託したのかは不明ですが、本当に「あの日、壁の外に出たから」なのでしょうか、このループの外に出ることを願って。


始祖の立ち位置と簒奪


始祖の家としては、おそらく中立で、勝った方の意見に委ねる立場だったのではないでしょうか。
言うなれば試合の審判、或いはトロフィーの様な位置づけ。

しかし、ここで横紙破りが起きます。
敗戦後、潜伏していたクルーガーとイェーガー親子の進撃の巨人による始祖の簒奪です



簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承権が無い者が、君主の地位を奪取すること(じしょ君より)

始祖の巨人が簒奪されたことでループ発動が出来なくなります(始祖の力を引き出せるのは王家のみ)。
敗けた進撃がトロフィー(王家の巨人)を奪取するというのは、まさに簒奪というにふさわしいです。

マーレの始祖奪還計画の真実


さて、ここまでで一つ矛盾が出てきます。
タイバー家がループ肯定派であるなら「何故マーレの始祖奪還計画を止めなかったのか」ということです。
マーレが始祖奪還に成功してしまうと王家によるループ発動が出来なくなってしまいます。

しかし、これはタイバー家が王家の血を継いだ家系だったとすれば解決されます。
その根拠となるのがアニメ進撃の巨人第二期のEDに出てくるこのシーンです。


これはユミル・フリッツの死後、九つに分けた血肉を食し、現在の九つの巨人を継承しているシーンとされており、また作中でも「始祖ユミル・フリッツには三人の娘がいた」と明言されています。

巨人はそれぞれの家系で継承されてきたことから、この三人もそれぞれ巨人を引き継ぐ家に分かれたはずです。
そして、その三家の内二つ、レイス家(壁の王、ヒストリア等)フリッツ家(ダイナ、ジーク)は王家として出てきてますが、三つ目の王家がタイバー家なのではないでしょうか。

であるならばマーレが始祖を奪還したとしても問題なくループが発動出来ます。
それどころか、マーレに潜むフクロウが始祖簒奪計画を本格化する直前に、このマーレの奪還計画が開始された所を見ると、先んじて始祖を保護するつもりだったのかもしれません(しかしマーレのトップがあまりにも無能だったため利用されかけた挙句、失敗に終わった)

またこうして見ると「奪還」「簒奪」はライナー達とエレン達の「戦士」「兵士」の対比の様に立場の違いを微妙なニュアンスで対比した言葉であることが窺えますね。

と、まぁ、ざっくりと思いつくままに書いてきた訳ですが、どれだけ当たっていることでしょうか(笑)

「名作 ピンポンの名トイレシーンの考察」(ゆめの)

アニメを見返した勢いで、そのまま漫画も全巻読み返してしまいました。
本当に懐の深い作品なので見る度に新しい発見がありますね。
その中でも意外と「ここはどういう意味なんだろう?」と疑問の声が多いトイレシーンを一つ考察してみたいと思います。





















この時のアクマが何を言いかけていたのか。
それを推し量るにはアクマが停学になった理由を思い返さなければなりません。





















俺は努力したよ!ペコに勝つために!風間さんに認められるために!

ペコというヒーローを超えるために、中学では二人と別れたアクマは、そこでドラゴンという新たなヒーローを見つけます。
しかし、そのヒーローはアクマを見ず、チーム(海王)を救うには自分の力だけでは足りずスマイルが必要だと繰り返し、その果てにアクマは討ち死に(卓球で)することになります。


ー時は経ち、トイレシーンへ。

アクマ 「風間さん、誰のために卓球やってます?」

ドラゴン「無論、自分のため・・・

と、来る訳です、ドラゴンはヒーローでは無かった。
皆を救うヒーローどころか、チームを救うためですらない。

「今のが本音なら、俺だって何も・・・」
あんな事はしなかった」ということでしょう、、、。


しかし、この直後、ドラゴンはチームの副将である真田にアクマと何を話したか聞かれ、しばらく沈黙した後に「無論、チームのためだ・・・」と答えたと言います。












この辺りのそれぞれの心情たるや。



そして、ペコが怪我を押して試合に出ようとするシーンでオババは聞きます(ここはアニメオリジナル)

ペコスマイルのために打つのかい?













ちげーよ、オババ、オイラがヒーローだからっしょ!

超オススメのアニメ 『ピンポン THE ANIMATION』-お帰り、ヒーロー-(ゆめの)
















言わずと知れた松本大洋の大傑作漫画「ピンポン」のアニメ。

最近、思い返す出来事があったので一気に全話見返しました、、、やはり最高のアニメです。

原作の漫画、それに映画も素晴らしかったので、何となく「アニメは見なくてもいいかなぁ~」と思っている人が意外と多いのが本当に残念です。
アニメ版にはオリジナルシーンも多く、それぞれのキャラクターがより深く描かれているので是非見て欲しいです。

あのペコがスマイルがドラゴンがアクマがチャイナが活き活きと動いています。

とにかくピンポンの原作や映画が好きな人で何となく見てないという人には絶対に見て欲しい!そうでない人にも絶対に見て欲しい!
私自身「何故これをリアルタイムで見なかったんだ」と後悔としたので。

オススメの映画『奇跡のひと マリーとマルグリット』 (ゆめの)





















フランスに実在したもう一人のヘレン・ケラー、マリー・ウルタンの物語。
生まれつき目も見えず音も聞こえず、碌なしつけも受けてこなかった野生動物の様な少女マリーを修道女のマルグリットが教育を通して心を通じ合わせる。

教育とありますが、それは今日の様なお上品なモノではなく、まさに戦いと呼ぶに相応しい魂と魂のぶつかり合いです。
だからこそ、マリーが初めて手話を覚えた時は、積もりに積もった憤りがそのまま全て喜びとなって噴出したかの様な嬉しさがあります。

余計なBGMなども無く、またマリー役のアリアナ・リヴォワール(この子も実際に聴覚障害者でなんと本作が初出演)の演技が凄まじく真に迫ります。
生々しい人間としての力強さと喜怒哀楽がズシンと重く響く秀作です。

『エンド・オブ・ザ・ワールド』(ゆめの)














地球滅亡まであと21日
お互いを「最後を過ごす場所」に送り届ける約束をして旅に出る。
ロマンスものとして紹介されているが、これはロードムービーでもある。

作中では、その最後以外に劇的な何かがある訳ではないですが、とにかく主演女優のキーラ・ナイトレイの魅力が煌めいています。
観た後で知りましたが「エターナル・サンシャイン」のプロデューサー、スティーヴ・ゴリンの制作ということで納得(こちらの映画でも主演女優のケイト・ウインスレットが魅力的に描かれていました)

ロードムービーの佳作です。

少年奇譚、ゆめゆめ忘れぬ(ゆめの)

子供の頃の記憶で妙に覚えていること、というものがないだろうか。
私の場合、その中の一つにがある。

夢の中で私は宇宙人殺されそうになっていて、家を飛び出して逃げるのだが、ふと気が付くと知らない道にポツンといて、もの凄い孤独感に襲われて絶望する。

そんな夢を子供の頃に何十回と見ていたのである。
どこかその夢には惹かれるものがあって、私は目が覚めた後、何度も夢で見た「知らない道」を探しに行った事がある。

出発前は謎の「辿り着ける確信」があり、途中までは夢の中と同じ道を辿って行けるのだが、近所にある歯医者さんの辺りから、どこをどう走って逃げていたのか分からなくなってしまって、いつも辿り着けずに諦めて家に帰った。
でも何故か、その夢を見る度に無性に「今度こそ辿り着けるんじゃないか?」という気がしてきてまた探しに出てしまうのだ。

少年の日の私には、それはどこかホラー映画にも似た怖いもの見たさの様な不思議な魅力があったのである。

いつの間にかその夢は見なくなってしまったけど、未だに脳裏に焼き付いていて忘れることが出来ないでいるのだ。