進撃の巨人 第二期ED曲『夕暮れの鳥』を考察(ゆめの)






















進撃の巨人第二期のED曲である神聖かまってちゃんの『夕暮れの鳥』の歌詞について巷では「意味がよく分からない」「謎や伏線があるのではないか」と言われているので私も考察してみました。

因みに私は英語の成績は赤点だったので歌詞の内容については完全に他力頼みです。

歌詞の詳細については他サイトをご覧ください。またネタバレ要素満載なので原作未読の方は要注意










歌詞とにらめっこをしていて「これは始祖の巨人が自分を引き継いだグリシャとエレンのことを歌った歌である」と思えてきました。

そして歌詞に頻出する『wind(風)と『blow(吹け)巨人の継承が起こることを現していること、
またタイトルの『夕暮れ』と歌詞に出てくる『Morning(朝)の対比は”無垢巨人から知性巨人になること継承)”を指しているのではないでしょうか。

ユミルが無垢巨人だった頃を「終わらない悪夢」と言っていたことからも十分可能性はあると思います。
とすると歌詞に出てくる『Morning in the bird朝の鳥』とは知性巨人ではないかと思われます。



さて、ここからはこの前提の元、歌詞を順に考察していきます。




Song in the bird cage. Should I sing if I sing(鳥かごの中の歌、歌えるのなら歌うべきか)


これは ”壁の中(鳥かご)にある始祖の巨人を私は奪うべきだろうか” というグリシャの自問ではないでしょうか。
アルミンも壁の中のことを鳥かごと表現していましたしね。




Sky Look wind tomorrow(空は明日に風を見て)Blow today(今日吹け)


この箇所は”始祖の巨人が次の継承の日を予見”しているのだと思います。



To expand the hand to the side of other town. Surely not accustomed divert alone(他の町にまで手を伸ばして、きっと孤独を紛らわすのは慣れていないだろうから)


これは独りマーレ(海岸)から壁の町へと向かうグリシャ”



~every night every night. Sing a song so on in the picture(~毎晩毎晩、写真の中の歌を歌う)


,,,進撃の巨人で写真といえば”グリシャの壁外で撮った家族写真”ですね。グリシャがまた家族を持った、ということでしょう。



Sky Look wind tomorrow. Blow to the side of you. ~Morning in the bird. It is next to you(空は明日に風を見て、風はあなたの側を吹き抜ける。~朝の鳥。それはあなたの隣にいる)


次の継承を予感し、巨人を継ぐのはグリシャのすぐ隣にいるエレンだ” ということでしょう。



I can sing again like a bird in the sky(私は空を飛ぶ鳥の様にまた歌える)


これは”始祖の巨人を壁の外へと連れ出したエレン”と合致します。そして、歌詞はここからエレンの歌へと移行します。



I'll sing out with my girl. Go to the meeting place sing alone rolling stone(私の少女と共に歌う。孤独に転がる石が歌う場所へ行きましょう


my girl と alone rolling stone ミカサのことで ”両親を殺され独りぼっち横たわっていたミカサをエレンが助けに行ったエピソード” に読み取れます。



そしてまた歌われる『To expand the hand to the side of other town. Surely not accustomed divert alone(他の町にまで手を伸ばして、きっと孤独を紛らわすのは慣れていないだろうから


これは反転して今度はエレンが孤独に壁からマーレに行くことを示唆しているのではないでしょうか。

そうなると、この時にはミカサやアルミンは死んでしまっているのかもしれません。
(エレンがマーレに行く理由として、おそらくジーク達との再戦に勝利し、アニの女型の巨人を含めた8体の巨人を継承したエレンが最後の巨人を求めて…といった所でしょうか)


この部分は完全に妄想ですが”始祖の巨人がイェーガー親子を歌った歌”という大筋には自信アリです。


2018/8/9 追記 

最近の話で明らかになって来ましたが、エレンが暴走(?)して単独マーレに乗り込んだようですね。

『Re:CREATORS』 (ゆめの)





アニメやゲームのキャラクターが現実世界に現れて・・・というあらすじなのだが、
ある種の単純な使命やキャラ付けされた物語の住人達が現実世界の複雑さや多様さに触れて、或いは戸惑い、或いは意に介さず、それぞれの変化や反応を見せる所が描かれていて興味深いです。

努力、根性、忍耐の使い方(ゆめの)

昨今の若者は根性がない、などと言って殊更シゴキを入れようとする人がいるが
そういう人を見るとイイ年して平和ボケした人だな、と私は思う。

それはともかく学生時代にブラックな会社で一年近くアルバイトをして、鬱病になった私の経験からアドバイスをすると、クソな会社はさっさと辞めるべきである。
そんな所に居続けることに努力と根性と忍耐を掛けるより、まともなバイト先を探すことに努力と根性と忍耐を使うべきです。

時事ネタ『1億人の個別主義者』(ゆめの)

私は子供の頃から民主主義というものに疑問を持っていた。
もちろん社会主義者でもないが、世論では~、一般人の感覚、大衆正義、都民ファースト、なんて言葉を聞くと少し辟易する。
しかし民主主義は絶対的正義でありそれに異を唱えるのはタブーである、というのが世の風潮である。

しかし、例えば、ソーシャルゲームの運営がプレイヤーの言うことをそのまま全部聞いてたらどうなるかを考えれば「それは間違っている」と誰でも分かるはずである。
不満をそのまま聞いても、問題の本質の解決にはならないことが往々にしてあるのだ。

閑話休題。
日本の自殺率は10万人あたり20.9人であり、経済協力開発機構(OECD)平均の12.4人と比べて未だに大きい値で、ピークはバブル崩壊直後の90年代である。

バブルの発端はアメリカによる日本の内需拡大命令(要するに公共事業によるバラマキ)によるものであるが、その後二十数年失われ続けている発端は日本のメディアによるものである。
バブル崩壊後、土俵際で踏ん張っていた経済に改善の兆しが見えず、メディアがやり玉に挙げたのが公共事業である。

そして、それに簡単に流されたものが世論である。
公共事業というものはインフレ時に抑え、デフレ時に増やす、というのが原則であることは誰でも知っていることであるが、どうも我々はその原則を忘れ続けてしまっている様である。
そのため日本は二十数年失われ続け、すでに核ミサイルを落とされたに等しい人命が失われているのである。

この様な問題が起こるのは、大衆というものは流されやすく、間違い易いからである。
人は一人では生きていけない、とはよく言われることであるが、個人が漠然とした大きな群れに属してもまた危険なのである。

要するに国家・世論等という巨大な群れにそのまま個人が属すること、個人達の意見を単純に一括りにまとめると人間は意見を改めず、思考と責任を放棄して暴走するということである。
現代の「世論」「一般人の感覚」とは「御国のために死ね」や「ハイル・ヒトラー」と本質的には同じである。
まさに盲信と無責任である。

では国家・国民にとって理想的な状態とは。
それは小さな群れをピラミッド状に集合させたものだと私は考えている。
根底に共通した思想を持ちつつも個人が思考と責任をしっかり負う大きさの集団の集合体、それが最も機能する国家なのだと思う。

そして、その小さな群れを「規制緩和」という大義名分で破壊し続けてきたものが自由競争、資本主義というものである。

、、、ちなみに元法制局の方も「民主主義や資本主義というものも完璧ではない、だがそれに代わるものも今の所ない」とTVではお茶を濁した発言をしていたが、
少なくとも近代文明もまだまだ未熟であるという自覚を我々は持つべきだと言いたいだけの記事だった。